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  • 2019.11.30 Saturday

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    「植草甚一の英語百貨店」

    • 2019.11.29 Friday
    • 16:27
    評価:
    植草甚一
    主婦と生活社
    ---
    (1976)
    コメント:JJ(柘植甚一)がニューヨークから仕入れた多種多様の商品(話題)を集めた百貨店。1階から8階まで商品(話題)を横に縦に日本語、英語、イラストを自由自在にレイアウト。さすがJJ!

     

    表紙には「ニューヨークで集めたコミック、

    DJ、映画、ジャズ、クイズ、パズル、

    おもちゃ、ガイド、ポスター・・・

    etc。」 

                                                     
    JJ(柘植甚一)がニューヨークから仕入れ

    た多種の商品(話題)を集めた百貨店。
    1階から8階まで商品(話題)を横に縦に

    日本語、米語、イラストを自由自在にレイア

    ウト。ちなみアメリカの百貨店には、日本の

    ような地下の食品フロアはない。

     

     

      話はそれるが百貨店に関しては、ジェフ

      リー・アーチャーの『チェルシー・テラ

      スへの道』をお勧めする。

      原題は「As the Crow Flies」。

      ロンドンのイーストエンド(下町)で

      八百屋の露天商を営む貧しい家に生まれ

      た主人公がウエストエンド(ニューヨー

      クでのブロードウェイみたいなところ)

      に百貨店を築き上げるサクセス・ストー

      リーである。

      「As the Crow Flies」カラスが飛ぶ距

      離、つまり直線距離ではそれほど離れ

      ていない、近くて遠かったウエストエ

      ンドへの成功の道のり、いう意味で付

      けたのかな。

     

      さて、ニューヨークのブルーミングデ

      ールを超える(?)、JJが創った

      この築43年の百貨店のフロワー案内

      は下記の通り。

     

      8F 「ぼくの英語はこんなふうにニュ

          ーヨークで通じなかった」

      7F フロアーテーマ【一息ついてコー

         ヒーで入れよう】

       「インスタント・コーヒーのうまい

        入れ方」「名探偵は死なない」

       「マルクス兄弟のおかしな世界 etc」

    6F フロアーテーマ【クイズやパズルは楽

        しい時間つぶしだ】

       「クリスティー・クイズ」

       「スクリーンテスト」

       「暗号文 etc」

    5F フロアーテーマ【ぼくのスクラップ

        ブックをのぞいてみよう】

       「マリワナのスラング」

       「ロッキードを英語で読む」

       「アメリカの−コママンガの

           パロディを作ろう etc」

    4F フロアーテーマ【オンリー・イエス

         タディ】

       「華やかなりし頃のハリウッド」

       「アメリカ建国百年!記念ガイド

        ブック」

       「アメリカの”吉原”ストーリービル

         案内 etc」

    3F フロアーテーマ【ニューヨークの隅

        から隅まで案内しよう】

       「グリニッジ・ビレッジの案内」

       「メニュー・アラカルト」

       「コーヒーテラスで見つけた

          チラシ etc」

    2F フロアーテーマ【アメリカはやっぱ

        りアメリカらしい】

       「マリリン・モンローの出生から

         死まで」

       「コカコーラの宣伝コピーの移り

        変わり etc」

    1F フロアーテーマ【雨の日はホテル

         で・・・】

       「ペットロックの飼育法」

       「ウルマンジャックが演歌を

         DJ」

       「ネズミ取りゲームで遊ぶ etc」

     

     

      歩き(読み)疲れたのでちょっと、

      7Fでコーヒー・ブレイクしましょう。
      なんと、インスタント・コーヒーのう

      まい入れ方が載っている。
     ==========================

      When making delicious Maxwell Coffee,

       several points must be thserved.

      (1) Use only good tap water.

      (2) Fill the kettle with water, calculating

        the number of people wanting

           to drink coffee.

      (3) Be sure to put the kettle over

        a lighted stove.

      (4) Boil the water thoroughly until it

        oveflrows the kettle. (This way you

        know the water has boiled.)

      (5) Take a spoonful of coffee and

        pour it into each cup. Be sure you

                fill each cup with a spoonful of

                coffee. 

          The spoon should be regular

            sized tea-spoon.

      (6) Take the boiling water with kettle

        and pour into each cup. Be sure

            there is a spoon placed in every

        cup as the spoon will play the most

            important role here. The boiling

        water should be poured slowly

                along the spoon until it hits the

                coffee and watch for that pleasant

                odor the coffee emits from the cup.

                Keep pouring until coffee cup is full.

      (7) You loose nothing of the essence

               of coffee by pouring water the way

           mentioned above. You and your

               friends

    ==============================

      ご教授ありがとう!と言う内容だろうか?

       JJ!

      見開きの次頁はコーヒーブレイクの

      デザートなのか唐突「スタンダードナン

      バーは殺しの番号」だ。
      「★納得したら、さっそく、新しい

      ポップスやロックのタイトルを並べて、

      ラブレターを作ってみよう。」と

      あるので、早速「You are my destiny

      君は我が定め」「I concentrace on you

      あなたに夢中」

      「Say it with your kisses キスで

      返事を」なるほど。

      でも結局「Don't be crue 冷たくしな

      いで」となりそうだ。

     

      ところで本書では「Don't be crue」と

      なっている。"be"ではなく"he"となっ

      ている。誤植?、いや〜JJのことだ、

      もっと深い意味があるに違いない。
     

     

    ちょっと古い品物(話題)が多い百貨店

    だけど、遊び心いっぱいで楽しい。
    普段は読書にはスコッチだが、今回はポ

    テトチップスにバドワイザーがいい。
    しかし、日本で製造されたモノじゃなく、

    ポップでライトなアメリカ直輸入ものに

    限るが。

    「モルトウィスキー大全」と「もし僕らがのことばがウィス キーであったなら」

    • 2019.11.28 Thursday
    • 20:31
    評価:
    土屋 守
    小学館
    ¥ 3,630
    (2009-11-25)
    コメント:今までに飲んだことのあるスコッチのページではその味わいを回想し、未体験のスコッチのページではその味を空想し思いを馳せる。スコッチ好きには「ブレンデッドスコッチ大全」と合わせて必需品である。
    Amazonランキング: 173469位

    初めてのウィスキーは父のサントリー角瓶だった。父の不在時に一口のはずが全部を

    飲み干し、翌朝は爽やかば目覚めだった。だがなぜか枕元に鎮座する母と姉から激し

    いゲンコツの嵐を受けた。記憶にないが酔っ払って大声で歌いながら吐いて倒れたよ

    うだ。二人は「このまま死ぬのではないか」と心配し一睡もしなかったそうだ。恐縮。

    この日以来、大のウィスキー党になった。

     

    金欠の大学時代に先輩から一口だけ飲ませてもらったジョニーウォーカー黒の複雑で

    スモーキーな味に驚いた。しかし昭和の時代の国内価格はアメリカの数倍でありジョ

    ニ黒も1万円以上で手が出ず、スモーキーで安価で旨いハイニッカに落ち着いた。

    今でも好きな1本だ。
    就職後は海外出張の際にはバーボンやシングルモルトをトランクに詰め込んで持ち

    帰った。税関で追加の税金を払っても国内価格より安くすんだ。

    それが平成を迎えると酒税がだんだん下がり手に届く価格となり、またディスカウ

    ントの酒屋も増え、店頭の種類も充実したのを機に小遣いをスコッチに費やした。

     

     

    中でもシンプルなデザインで異彩を放っていたのが「LAPHROAIG(ラフロイグ)10年」

    で、そのテイストは衝撃的だった。
    人によっては「ヨードチンキの味がする」と好まない人もいるが、重厚かつピーティー

    で旨く虜になった。その後に出会った「LAVULIN(ラガブーリン16年」滑らかでこち

    らもピーティーで美味しい。

     

     

    この2本を飲むときは、ミシェル・ルグランの「AFTER THE RAIN」がよく合う。

    ベースはロン・カーター、ドラムがグレイディ・テイト。ズート・シムズのテナーサッ

    クスとフィル・ウッズのアルトサックスの伸びやかでスローな掛け合いが何とも言えな

    い「NOBODY KNOWS」。映画「THE MAGIC GARDEN OF STANLEY SWEETHEART」

    サントラからのものだ。スロウなインタールードからブルージーに展開する映画

    「嵐が丘」の「I WAS BORN IN LOVE WITH YOU」もよく合う。
    ミシェル・ルグランはフランス人だ。スコッチの消費量が一番多い国はフランスだった

    と思う。相性がいいはずだ。

     

    シングルモルトは本当に個性派揃いだ。そして生産地区分では一緒くたに語れない。そ

    の個性的なシングルモルト1銘柄ごとに解説してくれるのがこの土屋守さんが書いた

    「モルトウィスキー大全」だ。

    土屋さんはウイスキー評論家でありエッセイストでウィスキー文化研究所の代表でもあ

    る。そして2014年NHK連続テレビ小説「マッサン」でウイスキー考証として監修をさ

    れている。

     

    この「モルトウィスキー大全」は、装丁もよいが頁の紙が厚くて触り心地が良く、228

    種類の銘柄をそれぞれ見開で、左のページは歴者や特徴の説明、右ページにはドンと色

    鮮やかで美しいボトルの写真とシンプルなスペックが載っている。そして右上には

    「ISLAY」「ISLANDS」「HIGHLAND」「SPEYSIDE」「LOWLAND」「IRELAND」

    と生産地区分が縦書きで記されている。この生産地区分の解説は本の終わりに蒸留所関

    係地図や美味しい飲み方と一緒に載っている。

     

    個人的には「ISLAY」「ISLANDS」「IRELAND」のシングルモルトに思い入れがある。

    これらの地を一度は訪れてみたい。
    その想いを少しだけ肩代わりしてくれたのが村上春樹の「もし僕らがのことばがウィス

    キーであったなら」だ。「LAPHROAIG(ラフロイグ)10年」を飲みながら「モルトウィ

    スキー大全」を手元に置き、この紀行文の世界を旅する。

    奥様の陽子さんによる写真も含めなかなか良い一冊となっている。

     

     

    「北海道地名分類字典」

    • 2019.11.27 Wednesday
    • 20:49
    評価:
    本多 貢
    北海道新聞社
    ---
    (1999-10)
    コメント:内地から友人が遊びに来ると札幌市街を一望できる藻岩山で、「札幌は元はサッポロペツアイヌといい、サツは乾いた、ポロは大きい、ペツは川で、乾いた大きな川と言う意味だ。この藻岩山はモは小さい、イワは岩山から名づけられた。」と得意げに披露する。この字典から北海道の歴史を紐解くことが出来る。

     

    北海道は日本の面積の約5分の1強の広さを占める。記録に残る1807年当時、約2万6千人

    のアイヌの人々が北海道に隈なく地名を残しているのは驚くべくことだ。

    本書は下記の構成からなる。

    第1部 アイヌ語地名
    第2部 ふるさと地名
    第3部 人名地名
    第4部 あやかり地名
    第5部 仮名地名
    巻末料
    .▲ぅ霧譴良週法
    地名研究者リスト

     

     

    今でも北海道の地名には、アイヌ語を音の近い漢字表示に置き換えたものと、アイヌ語地

    名の意味から漢字表示に置き換えたものがあり、現在でも約90%がアイヌ語由来である。
    アイヌ語音を音が近い漢字表示に置き換えた地名では、道都の札幌市は「札幌:サツポロ

    ペツ:乾いた大きな川」、「富良野:フーラヌイ:臭い(硫黄)・火炎」、「稚内:ヤム

    ワッカナイ:冷たい水の川」、黒潮の流れ北端に位置する積丹半島は「積丹:シャクコタ

    ン:夏の村」など多数ある。十勝の幕別町には白人という地名がある。白人の居住地では
    なく「白人(ちとっと):チロット:鳥が多くいる沼」である。


    アイヌ語地名の意味から漢字表示に置き換えたものでは「旭川:チュプペツ:日の川」や

    「砂川:オタウシナイ:砂の多い川」などがある。
    札幌市内の老舗和菓子メーカー月寒あんぱん本舗がある「月寒」は「月寒:チキサプ:我

    らがこすって火をだす処」であり、子供のころは「ツキサップ」との発音が主流だったが

    今では「ツキサム」が一般的になっている。

     

    ふるさと地名は、内地各地からの入植者、移住者の故郷名を付けたものだ。 江戸時代から

    の古い大地名、旧国名と出身県名、さらにい町村名から小字名が付けれている。

    東北・北陸の地名が多いが、北広島、鳥取、伏見など全国にわたる地名も存在しる。

    奈良県十津川村からの移住者は「新十津川」と名付けて、今でも十津川村を「母村」とし

    交流が続いている。札幌の「福井」地区は福井県から、仙台の札幌の白石区の白石は伊達

    仙台藩の支藩白石からの入植者によるものだ。ちなみに仙台藩の岩木山伊達家が札幌市内

    の手稲や当別町に、亘理伊達家は伊達氏に入植している。

     

    札幌の隣町の江別市(ユペオツ:蝶鮫が多い)に「世田谷」という地名がある。終戦間際

    に東京の世田谷区から疎開、集団入植したところだ。地味が悪いうえ、入植者のほとんど

    が農業経験がない都市インテリ層であったため近年まで苦労が絶えなかったそうだ。

    開高健はこの地区を題材にした小説「ロビンソンの末裔」を書いている。

    札幌の厚別区には長野諏訪からの移住者は、地名ではないが「信濃神社」「信濃小学校・

    中学校」に名を残している。


    人名地名では、亘理伊達家武士団による入植地は現在の伊達市が有名だ。「十勝ワイン」

    で有名な「池田町」は1896年に開墾が始まった「池田農場」の池田仲博(元鳥取藩主)に

    由来する。最近はドリカム(DREAMS COME TRUE)吉田美和さんの出身地として有名と

    なり町には「ドリカム記念館」がある。池田になる以前は「凋寒(しぼさむ):セイオロ

    サム(セーオロサム)貝のいるかたわら」で、その名は十勝ワイン「凋寒 セイオロサム」

    という深みのある美味しいワインに名づけられている。
    後志の京極町は愛媛県の旧佐貫丸亀藩主、京極高徳子爵が開いた「京極農場」から、札幌

    の白市区の「菊水」は京都の華族、菊亭脩季侯爵が開設した農場名から付けらた。札幌の

    奥座敷「定山渓」はこの地で温泉を発見した僧の美泉定山からだ。

     

    北海道でリンゴの産地と言えば余市町。最近はでNHKの朝ドラ「マッサン」の「ニッカ

    ウヰスキー」で有名だが、創業者で日本のウヰスキーの父と呼ばれる竹鶴政孝も出荷可能

    なウヰスキーモルトが熟成するまでのあいだはリンゴ酒製造で資金を賄っていた。奥羽越

    列藩同盟の中核として官軍との戦いに敗れた会津武士団がこの地に根付いてリンゴ栽培を

    始める。余市のリンゴは「武士のリンゴ」とも呼ばれる。
    駅前通りの黒川町は会津武士団代表の宗川熊四郎の「川」とかつて仇敵であったが余市へ

    の入植にあたり尽力してくれた薩摩出身の黒田清隆開拓使次官の「黒」から名づけられた

    ものだ。

     

    あやかり地名では、今は廃線となった十勝広尾線の「愛国から幸福行き切符」がひと昔

    全国的ブームとなった。「愛国」は1911年の皇太子殿下行啓を記念する青年会の名から、

    「幸福」は「幸震(さちない):サツナイ:乾いた川)の「幸」と福井県人が多かった

    ので、その「福井」の「福」との合成によるものだ。
    江別市にある札幌のハイクラスのベッドタウンとして開発された大麻地区の「大麻」は

    大曲地区名と麻畑からの合成である。今は函館市、旧亀田市鍛冶町は15世紀には鍛冶屋

    が居住し、応仁の乱のちょうど10年前の1456年に起きた「コマシャインの戦い」の原因

    は鍛冶屋とアイヌ少年のいざこざからであった。源義経北行伝説が残る「上ノ国」は15

    世紀ころ南部の日本海側は上ノ国(かみのくに)、太平洋側は下の国(しものくに)と称され

    ていた。年号では明治と大正は各1ヵ所1、昭和はなんと11ヶ所に地名を残している。


    仮名地名では、小樽から稚内までの日本海岸の観光ライン・ルートを天売島に生息する

    海ガラスの方言名オロロン鳥にちなみオロロンラインという。このオロロンラインの豊

    富町と幌延町の海岸線沿いには「芦原にある川」という意味の「サロベツ」原野が広が

    る。海には利尻富士が見える。映画『不毛地帯』のロケ地としても有名だ。

    北海道足寄郡足寄町東部・阿寒摩周国立公園内にある湖「オンネトー」は「年老いた沼」

    で、小樽の「オモタイ」は「砂の入り江」という意味だ。
    玉城千春さんと金城綾乃さんのグループ名「Kiroro(キロロ)はアイヌ語「kiroru(キロル

    ):人間が踏み固めた広い路」からのようだが、地名の「キロロ」は赤井川村にあるリゾ

    ート地で「気持ちのいい心」という意味。「Kiroro」の二人の歌声はまさにキロロと重な

    る。


    松浦武四郎が名付けた「北加伊道」は、アイヌの古老から「「カイ」はこの土地に生まれ

    た者、「ノー」は尊称でありお互いを「カイノー」と呼んでいることを聞き、また熱田神

    宮の歴史書「参考熱田大神縁起」による「東国で暮らす人々は自らの国を加伊と呼ぶ」か

    ら命名された。しかし王政復古を唱える明治政府は律令時代の七道にならい「北海道」と

    なり150年が過ぎた。その北海道には1882年(明治15年)には「函館県」「札幌県」

    「根室県」の3県に分かれており、1890年(明治23年)支庁制に移行した際に統一され

    今の北海道となったのだがその記憶も遠い。

     

    今の「北海道」は和人によって大半を占められているが、もともとはアイヌの人の「モシ

    リ:国」でもある。時には多く残るアイヌ語地名を紐解いて意味に思いを馳せて、アイヌ

    の人々の記憶である地名を遺す努力と、文化の共有を図る必要を感じる。

     

     

    「全一冊 小説 立花宗茂」

    • 2019.11.25 Monday
    • 22:22
    評価:
    童門 冬二
    集英社
    ¥ 1,100
    (2006-12-15)
    コメント:豊臣秀吉への大義を貫き西軍に加担し敗将となり自らは一介の牢人となる。しかし、徳川家康から武勇と人徳を認められて最後には旧領を復活させ立花藩は明治の世まで続く。本では戦国時代には稀有な存在として余すことなく描かれている。
    Amazonランキング: 48728位

     

    江戸幕府開業時に、徳川家康が求めていた人物像に最も当てはまったのが立花宗茂

    ではないかと思える。

    江戸幕府による中央集権が成立する前の戦国時代では主従関係は忠義よりも契約関

    係にある。日本で初めての武士政権である鎌倉幕府においても土地を介した契約で

    あり、鎌倉幕府に大事があれば「一所懸命」のため「いざ鎌倉へ」はせ参じる。

    契約のため木曽義仲や武田勝頼が敗走すると最期には多くの手勢が離散したことでも

    分かる。

    関ケ原の戦いにおいても豊臣恩顧の多くの大名たちが家康の権謀術数にはまり、また

    自らの損得勘定で徳川側に付いた。宗茂は、九州征伐の後に筑後国柳川に13万2000

    石を与えてくれ直臣に取り立てくれた豊臣秀吉への大義「戦いの勝敗にいかんと問わ

    ず、ただ、秀吉公の恩義に報いるのみ」と、石田三成への友情から西軍に付く。

    しかし、西軍を裏切った京極攻めに向かい関ヶ原への参戦の機会を失う。

    ちなみに、この琵琶湖を背にした堅牢な京極大津城を日本初の大筒攻めで降伏させて

    いる。以前の主である大友宗麟は先進的なキリシタン大名で南蛮貿易で最新鋭の武器、

    火薬が入手が可能であった、そのため家臣だった宗茂も大筒を保有していたのだろう。

     

    関ケ原の戦いでの敗戦後に西軍立直しのために豊臣秀頼と毛利輝元が残る大阪城で籠

    城を模索するが、輝元の不甲斐なさと淀君の覚悟の無さに自領の柳川へ引き返す。

    少なくとも淀君が、北条政子並みの強い意思があれば、籠城戦の最中に豊臣秀頼へは

    弓引けぬ、損得勘定と石田三成憎しで徳川方についた豊臣恩顧の大名が加勢する可能

    性は無かっただろうか。

     

    柳川城に引き返した宗茂は徳川軍に包囲され窮地に陥る。宗茂の人格に大きく影響し

    たのは実父高橋紹運と養父の立花道雪によるものだ。二人とも大友氏の重臣として大

    友宗麟を支える。実父高橋紹運は九州一帯の支配を目論む島津氏と徹底抗戦し憤死す

    る。宗茂も少数で守る福岡の立花山城で島津勢に対し奮戦していたが多勢に無勢で、

    実父の憤死に「存命して汚名を世上に傳んとは、努々思もよらぬことる」と言う。

    ただ、(この時は秀吉の九州征伐に合わせて少数で城を打って出てり島津勢を敗走さ

    せたが)

     

    当時の武将の多くは「兵たちの命は、城主が切腹して助けるのが大法である」として

    城を枕に討ち死にすることが多かったが、この時の宗茂は「柔軟な対応」をする。

    再三の加藤清正による主従ともどもの救命を前提とした投降の誘いに乗る。

    そして自身は改易となり一介の牢人となり生き延びることを選択する。宗茂を慕い同

    行を希望した家臣が多かったが少数を選び、残る多くの家臣は清正の恩情を受け清正

    の家臣団に加えてもらう。京に出た牢人宗茂は付き従った家臣のために再起に動き出

    す。

     

    徳川家康はしたたかだ。宗茂の武勇を十分恐れ認めている。茂宗がもし関ヶ原の戦い

    に参戦していたら勝敗が逆転してしていた可能性を十分理解していたと思われる。

    小早川秀秋の裏切りも無かった可能性もある。
    また、家康は茂宗が権謀術数の人でないことも見ぬいていただとう。徳川の世を永代

    とするためには、もはや武功ではなく忠義で維持することが大切であることは自明で

    あったろう。そこで誰もが知る「大義」の人である宗茂を取り立てることが有用であ

    った。宗茂は家康から1606年に陸奥国棚倉で1万石を与えられて大名に返り咲く。

    その後に将軍秀忠の御咄衆に取り立てられるなど、用心深く疑り深い徳川家からも絶

    大なる信頼を得るようになる。

    その結果、1620年に旧領の柳川に戻ることがかなう。当時西軍に加担した大名のほと

    んど改易や没収にあっているのに旧領そのままを戻されるのは宗茂以外はいるのだろ

    うか。

    柳川に戻った宗茂は徳川家への忠勤と領国での治世を実践する。宗茂は稀有の人だ。
    立花家には「領民の幸せこそ、第一の義とせよ」という宗茂による家訓が代々受け継

    がれているという。

    本書でも、宗茂は感情的にならない人であることが分かる。また、とにかく家臣に大

    事に扱い、隠し事をせず「情報開示」を当り前に行っていた。

    現代の会社でも結束の強い良い会社は、はたから見ても風通しが良いことが多い。

    立花家は戦いで死んだ家臣を克明に記録し、代々その人々への弔いを続けていたと言

    う。良い経営者による、良い組織づくりがここにある。

    今、立花宗茂が注目されているのは良いことだ。

    「ミステリー風味ロンドン案内」

    • 2019.11.24 Sunday
    • 20:50
    評価:
    西尾 忠久,内山 正
    東京書籍
    ---
    (1988-07)
    コメント:ロンドンの各ストリートの紹介と、そこを舞台や所縁とするミステリー小説と作品に登場する場所や店舗、レストランを絡め紹介されている。内田さんによる手書きの挿絵も洒落ている。2冊目のロンドン・ガイドブックとして必需品だ。

    著者の西尾さんが本書を書くきっかけは、ロバート・B・パーカーの『スペンサー』

    での私立探偵スペンサーの恋人のスーザンが言った

    「ロンドンに飽きたら、人生に飽きたに等しい」だったようだ。ロンドンの主な街

    (ストリート)の由縁の紹介とともに、そこを舞台や所縁とするミステリー小説と
    作品に登場する場所や店舗、レストランを絡め紹介されている。

     

     

    『ジャーミン・ストリート』はウェストミンスターのバッキンガム宮殿近くのセント

    ジェームズ地区にある。「バクストン&ウィットフィールド」は1704年創業の王室

    ご用達のチーズ店だ。「G・グリーン:ヒューマン・ファクター」のなかで主人公が

    妻から「バクストン&ウィットフィールド店」でチーズを買ってるように言いつけら

    れる。この店は1704年創業の王室ご用達だ。
    セント・ジェイムス・ストリートの交差点にほど近いところに「ターンブル&アッ

    サー店」の旗艦店がある。1885年に設立された紳士のオーダーメイドシャツメーカー

    だ。チャーリー・マフィンのシリーズで有名なブライアン・フリーマントルに「十一

    月の男」に登場する成上りの実業家のご用達店として出で来る。「ベイツ帽子店」は

    ディック・フランシスの「本命」で、「ウイルトン」はフレデリック・フォーサイス

    の「戦争の犬たち」に出てくる高級レストランだ。

     


    『セント・ジェイムス・ストリート』はロンドン中心部のセントジェームズ地区の主

    要な通りで官庁街だ。ポールモールまで続く。
    ここにある「J・ロブ靴店」はビスポーク専門店として有名で1866年創業で王室ご

    用達だ。ジャーミン・ストリートで登場したライアン・フリーマントルの「十一月の

    男」に登場する成上りの実業家はここでもお得意様らしい。ここを南へ下ると帽子店

    「ジェームスロック」があるこちらも1676年創業で王室ご用達だ。 ボーラーハット

    山高帽を作ったのはここである。山高帽 といえば、J・ポーターの「切断」「奮闘」

    のロンドン警視庁のドーヴァ主任警部のトレードマークとなっている。

     

     

    『ピカディリー』にはなぜか「ストリート」が付かないらしい。「ピカディル」と呼

    ばれた高いひだ飾りつきシャツのカラーからつけられたらしい。

    ここにある「フォートナム&メイソン」は王室ご用達の紅茶の専門店としてだけでは

    なく“英国産の特別なお土産”を見つけることができる百貨店である。イラン・イラク

    戦争のさなかでもベルーガもののキャヴィアを売っていたらしい。

    また、D・ランバードの「ダイヤに最後の挨拶を」ではここの喫茶室「ファウンテン

    ・ルーム」で主人公はコーヒーを飲む場面が出で来る。
    イアン・フレミング原作で映画O07シリーズの「ロシアより愛をこめて」で登場する

    ”Q”が細工したアタッシュケースは「スウェイン・アンド・アドニー」製だ。
    1750年にジョン・ロスによりロンドンのピカデリーで創業されたのが1798年にジェ

    ームズ・スウェインが買い取った。1780年にジョージ三世の馬用のむちメーカーと

    して王室ご用達になっている。議会開催時にエリザベス女王が国会議事堂に向かう際

    の馬車で御者が使うむちもここの物らしい。

     


    『カーズン・ストリート界隈&オードリー・ストリート界隈』カーゾンストリートは

    ロンドンのメイフェア地区にありイアン・フレミング「女王陛下の007」に出てく

    るのが「トランパー理髪店」だ。カーゾン・ストリートとハートフォード・ストリー

    トが交差した角には「カーゾンメイフェア映画館」がある。この映画館にB・デナム

    「二人のサード子爵」で容疑者がシャブロルの「ヴィオレット・ノジエール」を観に

    くる。この通りはフレデリック・フォーサイスの「ジャッカルの日」にも出てくる。

     

    ロンドンのストリートにはそれぞれ長い歴史がある。それぞれのストリートを舞台や

    所縁とするミステリー小説と作品に登場する場所や店舗、レストランがる。

    ミステーリー好きには必需品のガイドブックだ。

     

     

     

    「アイヌ人物誌」松浦武四郎原著『近世蝦夷人物誌』

    • 2019.11.23 Saturday
    • 17:33
    評価:
    松浦 武四郎,更科 源蔵,吉田 豊
    農山漁村文化協会
    ---
    (1981-08-01)
    コメント:松浦武四郎は蝦夷地の地理をただ調査したり、アイヌの人々の生活の実情をただ観察記録するだけではなく、寝食を共にして一人ひとりに同等のヒューマニストとしての目線で向き合い掘り下げて「取材」をしている。さらに本書からはアイヌの人々に対するヒューマニスト以上の「愛情」と「尊敬」を感じる。超一級のジャーナリストだ。
    Amazonランキング: 859057位

    松浦武四郎ははじめ地名を「北加伊道」にすることを推した。アイヌの古老から

    「「カイ」はこの土地に生まれた者、「ノー」は尊称でありお互いを「カイノー」

    と呼んでいること、また熱田神宮の歴史書「参考熱田大神縁起」による「東国で

    暮らす人々は自らの国を加伊と呼ぶ」から「北加伊道」が相応しいと考えた。

    しかし王政復古を唱える明治政府や松浦武四郎の支援者だった水戸藩主(徳川斉
    昭)らにより律令時代の七道にならい「北海道」となった。

     

    冒頭の解題で翻訳者の更科源蔵が
    「この本の著者である松浦武四郎(竹四郎とも署名する) は、十六歳の時から故

    郷を離れ、日本国中を隅から隅まで歩き、でき得れば唐(中国)天竺(印度)に

    までも渡ろうとこころざした。 それが不可能と知ると、当時流人の島として世間

    から疎外されていた蝦夷島に渡り、五回にわたって道のない山野に分け入り、今

    は異国になった樺太までも探検の足を踏み入れ、時の為政者によって隠され、

    忘れられている辺境の島の姿を、世に紹介した。
    時には刺客につけねらわれながらも、ついに明治維新を迎えて、蝦夷地に近代の

    曙の光がさしたとき、その国郡名を定め、彼の雅号である北海道人の名をとって、

    この島を北海道とした。北海道の名付けの親であった。

    彼は、時の為政者からは悪徳をあばく痴者として刺客をつけられたように、波荒

    い北海の濃霧にさえぎられた島で日本人のあくことのない野蛮な収奪と不徳のも

    とで、蝦夷といわれたアイヌ民族が、どのような立場におかれ、どのような仕打

    ちをうけていたか、彼の数十巻にのぼる旅日記にも、それらがきびしく批評され

    告発されている。 しかし多くは地理の書としてであって、充分に彼の記述した

    かったことがのべられていない。そのヒューマニストとしての本質をまとめたの

    が、この 『近世蝦夷人物誌』であるといえよう。」とある。

     

     

    蝦夷地は文化4年(1807年)から文政4年(1821年)間は、南下するロシアへの

    対策から幕府の直轄領となっていたがその後に松前藩に支配権が戻された。

    そして安政2年(1855年)乙部村以北、木古内村以東の蝦夷地を幕府直轄領に戻

    し松前藩は領地は渡島半島南西部だけとなった。

    松浦武四郎の蝦夷島に渡るのはこの時代であり、アイヌの人々が松前藩の過酷な

    圧政に疲弊していたころだ。
    アイヌ民族博物館によるアイヌ人の人口統計によると
    ・文化4年(1807年) 2万6256人
    ・文政5年(1822年) 2万3563人
    ・嘉永7年/安政元年(1854年) 1万7810人
    とある。

    幕府が直轄した1807年1822年で約10%、松前藩支配に戻ってから1854年までに

    約24%の人口が減り、調査を開始してから1854年までの約半世紀で約32%とが

    分かる。どのような過酷な仕打ちをしたかを物語る数字だ。

    本書でアイヌの古老は以前の幕府直轄領時代を知っているため本書の中でも再び

    直轄支配なったことへの期待が出てくるが、1807年からの幕府直轄領時代にも既

    に松前藩時代に場所請負制が出来上がっており、年平均でみるとほぼ同数の人口

    が減少していることが分かる。


    松浦武四郎が「近世蝦夷人物誌」を書き上げ後に「この書物は三分のーが蝦夷地

    の地理、三分のーが人物記録、そして、あとの三分のーは、あなたによる (和人

    の行動に対する)悪ロですな」と言われたという。

    松浦武四郎は蝦夷地の地理を調査したり、アイヌの人々の生活の実情をただ観察

    するのではなく、寝食を共にして一人ひとりに同等の目線で向き合い「取材」を

    している。超一級のジャーナリストだ。

    不正を糾弾するとともに「この地の人々は、漢詩、和歌、連歌、俳句などの技を

    持たぬため、文字の道で名をあげた者こそいないが、忠と孝、五常(仁義礼智信

    の五つの美徳)の道にすぐれ、豪気、義勇の士が多い」と評価しそれらの人々を

    実名を挙げて書き記している。松浦武四郎が残してくれた「近世蝦夷人物誌」の

    おかげで当時のアイヌの人々の実像を知ることが出来る。その内容にはヒューマ

    ニスト以上の「愛情」と「尊敬」を感じる。

     

    松浦武四郎は郷士で庄屋を営む家で生まれた。同時代には幕末・明治初期におけ

    る突出した人物が登場する。この時代に活躍したのは御家人、与力、同心、100

    石以下の下級武士、郷士、足軽、庄屋の出身者が中心だ。
    その教養高さ、テクノクラートとしての活躍は目を見張るのもがある。一代前、

    二代前が庶民で御家人株を買って武士となった榎本武揚や勝海舟、質屋、酒造業、

    呉服商を営む豪商才谷屋の分家郷士の坂本龍馬。幕末期の儒家・陽明学者で松山

    藩の藩政改革改革者を行った山田方谷に至っては農民出身だ。あげればキリがな

    い。松浦武四郎は与力でありながら陽明学者として名の知れたていた、あの大塩

    平八郎の門をたたき、「日本外史」頼山陽の息子の頼三樹三郎とは親友で一緒に

    蝦夷地に渡っている。

     

    松浦武四郎の蝦夷島に渡る前の実像は本書この後に記述されているが、松阪市に

    ある松浦武四郎記念館の
    HP(https://takeshiro.net/)や松阪市観光協会のHP(https://www.city.matsusaka.mie.jp/site/kanko/matuuratakeshirou.html)
    で、生い立ちたや偉業の足跡が詳しく解説されているので、ぜひご覧いただきた

    い。また本書は既に絶版となっているが青土社から同名で出版されているので、

    こちらもお読み頂きたい。


    今でも北海道を広いと感じる。仕事の関係でほぼ全道を廻ったがアイヌの人々は

    蝦夷地を隈なく知り尽くし、その特徴を地名として残している。現在においても

    9割がアイヌ語縁の地名のままだ。
    本書の「猟師ブヤツトキ」では、石狩川上流のオチンカバという土地に住む猟師

    ブヤツトキについて「ブヤツトキは、なにしろ猟が大好きで、いつも山中を駆け

    めぐり、交易所の仕事の合間には、もっばら熊を追って天塩川を越え、鹿を追っ

    ては十勝、タ張の山中にまで行って、凍った雪の上を渡り歩くのが、あたかも隣

    近所を行くかのようである。朝、家を出れば、その夜は十勝領の佐幌(サホロ)

    で夜を明かし、つぎのタ方には釧路(クスリ)、常呂(トコロ)まで越えるのも、
     なんとも思わず、獲物の足跡さえ見つければ、 一度もこれを取り逃がしたこと

    はなかった。」
    今でも、自動車で釧路や常呂へ行く際は日帰りはしない。自由だったころのアイ

    ヌの人々の姿を彷彿させるエピソードだ。
    しかし多くのアイヌの人々の実態は交易所や番屋といった鎖に縛られ隷属を強い

    られていた。

    今年,NHKの北海道150年記念ドラマ、「永遠のニㇱパ 〜北海道と名付けた男

    松浦武四郎〜」を嵐ファン(特に松潤ファン)含め多くの人がご覧になったろ

    う。そして、当時のアイヌの人々の置かれた状況に驚かれたと思う。

    しかし、事実は変えられない。しかし、先ずは事実を知ることからだ。

     

    松浦武四郎は郷士で庄屋を営む家で生まれた。同時代には幕末・明治初期におけ

    る突出した人物が登場する。
    この時代に活躍したのは御家人、与力、同心、100石以下の下級武士、郷士、足

    軽、庄屋の出身者が中心だ。彼らの教養高さ、テクノクラートとしての実力は目

    を見張るのもがある。

    一代前、二代前が庶民で御家人株を買って武士となった榎本武揚や勝海舟や質屋、

    酒造業、呉服商を営む豪商才谷屋の分家郷士の坂本龍馬。幕末期の儒家・陽明学

    者で松山藩の藩政改革改革者を行った山田方谷に至っては農民出身だ。

    あげればキリがない。
    松浦武四郎は与力でありながら陽明学者として名の知れたていた、あの大塩平八

    郎の門をたたき、「日本外史」頼山陽の息子の頼三樹三郎とは親友で一緒に蝦夷

    地に渡っている。

     

    しかし、この時代に「突然変異」が起きたわけではない。これの層に代々脈々と

    教育の礎があったからだと思う。

     

    国力を高めるのには、先ずは教育への投資が必要であることを痛感する。

    「ケルトの残照 ブルターニュ、ハルシュタッット、ラ・テーヌ心象紀行」

    • 2019.11.22 Friday
    • 20:30
    評価:
    堀 淳一
    東京書籍
    ---
    (1991-06)
    コメント:アミニズムの記憶を持つ日本人の目を通して、キリスト教化下のフランス、オーストリア、スイスにおけるケルト人の痕跡を辿る旅。堀先生ご自身による写真と美しく優しい言葉で綴られた一級のエッセイ集だ。
    Amazonランキング: 630454位

     

    堀先生の旅はブルターニュのキリスト教会や史跡に残る「ケルトの残照」の探訪から始ま

    る。「ブルターニュという地名も、実は彼等が自分たちの故郷を大ブリテン、移住先の地

    を小ブルテンと呼んだのにはじまるのだ。これがブリタニー、すなわちフランス名でブル

    ターニュとなった。」
    そのブルターニュには、聖母マリアとキリストと一緒にマリアの母アンナが加わった像や

    黒い聖母マリア像が多いことに気づく。それらの像の中には、清純で畏れ多いお姿ではな

    く、なまめかしく豊潤、時には不気味で怖いお姿も多いらしい。ケルト人の多くは短期間

    でローマ帝国の支配にともないキリスト教徒となったが、教化する過程で「ケルト人が信

    仰した宗教ドルイド教やケルト社会の風俗と大幅に妥協した、ローマ・カトリックからみ

    るとひどく異教的な趣きの強いものだった」ようだ。

    なまめかしく豊潤、時には不気味なマリアとアンナは「ケルトの社会がかなり女性原理の

    強い女神の力が強かったことにも現れているように女性が輝ける豊暁の源としてあがめら

    れていた」「処女性や清純さの象徴としてよりも豊暁の象徴として崇拝された。」として

    今に残る。顔の黒い聖母マリアが大いのも、ケルト人にとって「黒」は神聖な色からだ。

     

    ブルターニュに残るアーサー王の聖杯伝説は、ケルトの神ダグザの大鍋と重なる。大鍋は

    再生、復活の象徴だそうだ。打ち取った敵の首は勝利の印ではなく、大鍋に入れて首に宿

    っていた霊力を蘇らせその霊力で超自然的な危険から護ってもらうためだったらしい。

    ケルトの戦士は再生を信じているため死を恐れない。戦いにおいては裸で武勇を誇示した

    果敢な攻撃にはローマ軍も手を焼いたようだ。

     

    次に「ケルトの残照」を巡る旅は、「ケルト人のふるさと」と言われるオーストリアのハ

    ルシュタットだ。チロル・アルプスの東の続きの山のふところにある美しいハルシュタッ

    ト湖がある町だ。
    ケルト人は青銅器時代の末期にボヘミア周辺に誕生し古代のヨーロッパを席巻した、と言

    われてきたが、このハルシュタットで大規模なケルト人墓地が発見された。その後の発掘

    で分布や出土器の伝播経路からドイツ南部、スイス、オーストリアにかけてのハルシュタ

    ットを含む一帯からケルト人が四方に拡がったらしい。

    ケルト人がこのハルシュタットを居したのは「塩」が採れたからだろう。ハルシュタット

    の「ハル」、製塩場があったところに「ハル」が付くらしい。ちなみにハルシュタットか

    ら60kmほど離れたモーツァルト誕生の地であるザルツブルクのザルツも塩を意味する。

    ケルト人はこの塩の一帯で栄えて身分の高くない坑夫や鉱石運搬人の墓からも必ず副葬品

    が出たという。
    「ハルンュタットの発掘をキッカケにして、ケルト社会のゆたかさや芸術性の高さや社会

    組織や暮らしの様子が分ってきて、それまではヨーロッパでかつて高い文化をもっていた

    のは文字資料を残したギリンアやローマやその周辺の地中海辺縁の諸民族だけだと思われ

    ていたのが、そうじゃなくて、野蛮な無文字民族としか思われていなかったケルトもかな

    り高い文化をもっていたんだ、と認識されるようになった。ヨーロッパ文化の根っこには

    ギリシャ、ローマの文化だけじゃなくてケルト文化もあった。」にもうなずける。

    ブルターニュの人々は、聖母マリアの母アンナをケルト人を支配したフランク王国でフラ

    ンスによる併合を防ぐ努力をしたアンヌ王女と重ねていたそうだが、母アンナは坑夫の守

    護神でもある。ブルターニュのケルト人にはハルシュタットの記憶がアンナと結びついた

    のではなかろうか。

     

     

    堀先生といえば学生時代にはエントロピー関連の本で知り、物理の先生のイメージが強

    かった。その後、姉が堀先生が主催された「地図歩き」のサークル活動に参加させてい

    ただき、姉から地図研究家でエッセイストとして、とても優しく好奇心いっぱいのお人

    柄であることを聞いていた。一昨年に92歳でお亡くなりになったと知り、ぜひ先生のエ

    ッセイを読みたく、また個人的にケルトに興味を持っていたので本書を選ばせて頂いた。

     

    ケルトについての興味はウィスキーからだ。ウィスキーはケルトの末裔たちによるもの

    だ。自宅ではスコッチかアイリッシュしか手にしない。"whisky" または "whiskey"の

    名称は、蒸留アルコールを意味するラテン語の "aqua vitae" (アクア・ヴィテ、

    「命の水」)に由来する。知識の源は土屋守氏の「モルトウィスキー大全」、「ブレン

    デットスコッチ大全」からだ。この2冊は今でも本棚の一等地に鎮座している。
    読書時にはアイラのピーティーなラフロイグやラガヴーリンを、ぼーっとしたい時はア

    イリッシュのブッシュミルズを愛飲している。特にブッシュミルのブラックブッシュを

    口に含むと何故か草原にぽつんとある岩の上で柔らかい風に包まれているような気分に

    なるのが不思議だ。

    この堀先生の「ケルトの残照」はブラックブッシュの味がした。

    「ジオ・ポンティ」とリキさん

    • 2019.11.21 Thursday
    • 15:44
    評価:
    グラツィエラ・ロッチェッラ
    タッシェン・ジャパン
    ---
    (2010-11-12)
    コメント:イタリアを代表するデザイナーで建築設計家であるジオ・ポンティ魅力が詰まった一冊だ。ジオ・ポンティの作品は究極の美を選択し洗練されている。まさにエレガンスだ。それは日本の美意識に通じる「ēligere」でもある。
    Amazonランキング: 1461435位

    本書の表紙は、外・内装ともに青色と白色のみからなる「巨大で軽く震える羽」と形

    容された邸宅「ヴィラ・アレアザ」のリビングルームだ。椅子は「ラウンド」が配置

    されている。この邸宅は家具を含めて全ての設計・デザインはジオ・ポンティによる

    もので「デアマンティーナ」と呼ばれるダイヤモンド形セラミックタイルの外装が美

    しい。建築用に機能別に色分けされた平面図も優美で秀逸だ。

     

     

    ジオ・ポンティにとって「建築表現の真実の純粋なシンボル」はオベリスクだっ

    たようだ。「ピレッツ・タワー」はまさにオベリスクそのものだ。竣工日にジオ

    ・ポンティは娘たちに「彼女(ピレッツ・タワー)があまりに美しいから結婚し

    たいくらいだ」と言う。

     

    また、ジオ・ポンティは自動車の設計までも手掛けている。生産には至らなかっ

    たがアルファロメオ「1900」の機構をベースに、ビルや家具と同じダイヤモン

    ド形のモチーフを採用した「リネア・ディアマンテ」はリアドアより後ろを急速

    にすぼめることで生まれた独特のリフレクションが特徴的だ。後年のジウジアー

    ロのデザインに比べてもより先鋭化した先を行くシンプルで斬新なもので驚かさ

    れる。
    ジオ・ポンティは工業デザイナーとしてもその手腕を発揮しただけではなく、過

    去には応用芸術でも才能を開花していた。世界的に有名な陶磁器メー力一「リチ

    ャード・ジノリ」で芸術管理を引き受け、既存製品を群ごとにまとめの連続生産

    方式を個別生産の美術工芸品に適用した考案した新しい製品ラインを開発した。

    合わせて会社の古文書から不採用だった昔のデザインを探し、独自の力ラフルな

    タツチによって現代風にアレンジし「リチャード・ジノリ」のブランドも高める

    などプロジューサーとしての才能も発揮していた。
     

    著者は「ジオ・ポンティは均衡、調和、明確さ、美が達成される瞬間、創作活動

    に細心の注意を払った。結局、進歩は小さな一歩を積み重ねなければ達成できな

    いと知っていた。「完成された形態」を追求していたことに現われているように、

    芸術家として完壁を求めると同時に、独特かつとらえがたい構成と形態を決める

    際の直感も兼ね備えていた。」と言う。

     

    ラテン語の「ēligere」は「Elegance」の語源で「選り抜く」という意味らしい。

    ジオ・ポンティは作品において究極の美を追求選択して洗練化させている。彼自

    身も彼の作品もエレガントだ。それは日本の美意識に通じる「ēligere」でもある。

    まさに彼の「ēligere」には日本古来の「引き算の美」に通じるものを感じる。


    ところで私がジオ・ポンティを知るのは、日本を代表する工業デザイナー渡辺力

    さん経由だった。
    まだ東京スカイツリーが3分の1くらいしか出来上がっていなかった頃、約2年

    ほど商業店舗の内装設計部門でコーディネイターとして働いていた。空いた時間

    は仕事上の資料集めの一環と称して東京の街々をぶらついていた。そんな日々の

    ある日に日比谷交差点で出会ったのが第一生命本社にある渡辺力さんのポール時

    計だった。シンプルな美しいデザインに思わず見入り足を止めた。
    その後、ネット検索で渡辺力さんが1957年にトリイスツールと円形センターテー

    ブルがミラノトリエンナーレで金賞を受賞したこと、また、工業デサインだけで

    いはなく家具のデザインを手掛けていることを知り、かの「ヒモイス」に出会っ

    た。私は昔から「椅子好き」だ。今でも狭い自室に無理やりデザインが異なる椅

    子を置いて生活してる。「椅子好き」の始まりは旧帝国ホテルを設計したフラン

    ク・ロイド・ライトの椅子に魅せられたからだ。

     

    渡辺力さんの「ヒモイス」と同時期に制作されたジオ・ポンティの「スーパーレ

    ジェーラ」を知るに至り好奇心から本書を購入した。

    更に本書でジオ・ポンティが「ドムス(domus)」の創刊者(1928年)あるこ

    とを知り驚いた。カラフルなデザインの誌面が多いので収集していたからだ。

    ちなみに「domus」とはラテン語で家屋または家庭を意味する。

     

    知らなかったと言えば、30年ほど前にリオデジャネイロでの会議の際に寄った

    サンパウロ美術館はイタリア人の建築家リナ・ボ・バルディによるもので、ブ

    ラジルに移る以前にジオ・ポンティのもとでインテリアデザインをしていたそ

    うだ。美術館として収納作品の質の高さにも驚いたが、赤い大きな支柱による

    高床式建築には圧倒された。この彼女の作品もまたエレガントで「ēligere」だ

    った。


    ジオ・ポンティは「ホモ・ルーデンス(遊戯する人間)そのものであり、軽さ

    の達人。」とある。まさにそのジオ・ポンティがこの一冊に凝縮されている。

    「A Study of History Illustrated by Arnold Toynbee (歴史の研究(要約および図解)」

    • 2019.11.20 Wednesday
    • 22:13
    評価:
    Arnold Toynbee
    ---
    ---
    (1972)
    コメント:トインビーはイギリスの歴史家で、全12巻の「歴史の研究」を執筆した。本書は一般読者向けに要約版で、1972年に刊行され邦訳は「歴史の研究(最初の1冊の要約版)図解」である。本書での文明をグループ分けにしての比較論の的確さは読むに値する。

     

    以下は、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説によると

    =======================================

    Toynbee, Arnold Joseph
    [生]1889.4.14. ロンドン
    [没]1975.10.22. ヨーク
    イギリスの歴史家。オックスフォード大学に学び,ギリシア史を専攻。ロンドン大学

    教授 (1919〜24) を経て王立国際問題研究所主任研究員 (1924〜56) ,両世界大戦

    中は政府要員として活躍,パリ平和会議 (1946) にも派遣された。著書は『新しいヨ

    ーロッパ』 The New Europe (1915) をはじめ『試練に立つ文明』 Civilization on

    Trial (1948) など多数あるが,12巻の大著『歴史の研究』A Study of History

    (1934〜61) が代表作。文明の起源を環境の「挑戦」に対する「応答」の試練とみ,

    歴史における英雄 (特に宗教家) の役割を重視して「撤退と復帰」の理論を展開。

    また文明崩壊の原因を「創造性の復讐」とみなすなど従来の史家の政治的,経済的決

    定論に対して一種の宗教的,予言的史観を提示した。

    ========================================

    とある。

    構想を始めた1921年から最後の巻が出版される1961年まで40年を費やしている。
    本書「A Study of History Illustrated by Arnold Toynbee

      (歴史の研究(要約および図解)」は
    一般読者向けに要約版でオックスフォード大学出版社から1972年に発行されたも

    のだ。全体は構成から下記の構成からなる。

    -------------------------------------------------------------------------------------------

    PART機FOREWORD
    PART供THE SHAPE OF HISTORY
    PART掘THE GROWTHS OF CIVILIZATIONS
    PART検THE BREAKDOWNS OF CIVILIZATIONS
    PART后THE DISINTEGRARIONS OF CIVILIZATIONS
    PART此UNIVERSAL STATES
    PART察UNIVERSAL CHURCHES
    PART次HEROIC AGES
    PART宗CONTACTS BETWEEN CIVILIZATIONS IN SPACE 
    PART勝CONTACTS BETWEEN CIVILIZATIONS IN TIME 
    PART将機WHY STUDY HISTORY?
    MAPS
    CHRONOLOGIES
    NOTES ON THE TEXT
    LIST OF ILLUSTRATIONS
    INDEX

    ------------------全576ページ-------------------------------------------------------------

    トインビーはイギリスにおける「過去」の知の巨人であり歴史家である。日本の「過去」

    知の巨人で歴史家と言えば誰か。本書を読みながら「日本外史」を著した頼山陽だと思

    い至った。「日本外史」を読んだのは高校生の時で、社会の先生に感想を伝えると「幕

    末の尊王攘夷志士に影響を与えた本だ。歴史書ではなく歴史小説だがら内容を鵜呑みに

    するなよ。」と言われた記憶がある。しかし元は漢文で書かれていただろう簡潔で美し

    い文章に魅了されたことを思い出す。

    頼山陽を知らない人でも古い世代では「川中島の戦い」で上杉謙信軍が武田軍の機先を

    制しての夜討で、馬に鞭打つ音も静かに千曲川を渡った情景を詠んだ詩句、詩吟でも

    有名な「鞭声粛粛夜河を過る」を、若い人でも時には使う「進退きわまる」は、後白河

    法皇の鹿ケ谷の陰謀発覚時に怒りから出兵を決めた平清盛に対し息子の重盛が諫めるが

    平清盛は聞き入れない。このシーンに出てくるのが「ここにおいて重盛、進退きわまれ

    り」から使われているそうだ。

    「日本外史」は日本史への興味を深くするきっかけとなった。
     

    本書の序文でトインビーは
    「But why study history at all? Why concern ourselves with anything beyond

    the range of our own time and place?
     At the present day then is a practical reason for taking a wider view.

    But why study history at all? 
    Why concern ourselves with anything beyond the range of our own time and

    place?

    At the present day there is a practical reason for taking a wider view. 」

    「This present-day practical reason for studying history compre-hensively is

    obvious and cogent. But, even if we were not moved to study history by

    a concern for self-preservation, we should be move by curiosity; for curiosity

    is one of the distinctive faculties of human nature.
     We should still feel curiosity about the Universe in which we find ourselves, 
    even if we were completely prosperous and secure -and no human society,

    at any time or anywhere, has yet come within sight of attaining these two

    ideal goals.」と言っている。

    「歴史を学ぶのは好奇心によるものだ。それが人間性の特徴のひとつだ。」と

    トインビーは言う。

     

    トインビーの未来予測や頼山陽の歴史著述において事実誤認を指摘されているが、

    それらを超える「Transcend thinking time and space」はともに今も色褪せない。

    両著とも一度は読でおく価値は大きい。

    「芭蕉自筆奥の細道 大型本」

    • 2019.11.19 Tuesday
    • 20:13
    評価:
    松尾 芭蕉
    岩波書店
    ---
    (1997-01-24)
    コメント:1996年に250年ぶりに江戸中期より不明となっていた松尾芭蕉自筆の「野坡本」が見つかった。本書は松尾芭蕉自筆の「野坡本」の影印、下には翻字が記されている。影印には書き癖のための貼紙もあり味わいがある。また優しい筆遣いが芭蕉の人柄を彷彿とさせてる。本書は一級の美術書だ。

    1996年に250年ぶりに江戸中期より不明となっていた松尾芭蕉自筆の「野坡本」が

    公表され岩波書店より1997年に「芭蕉自筆奥の細道 大型本」として発売された。

    この「野坡本」は1995年におきた阪神大震災で被災した古書店主が半壊した自宅か

    ら持ち出したものだそうだ。

     

    尾形仂氏による本書の序には「芭蕉自筆の『奥の細道』の出現。そう聞いただけで胸

    のときめきをおぼえぬ人は、おそらく一人もいないだろう。しかも、それは芭蕉自身

    の筆による七十数か所に及ぶ貼り紙訂正の跡をとどめた草稿本で、門人野城のもとに

    伝来した、いわゆる野城本に当たるものだろうという。とすれば、本点は芭蕉の肉筆

    として珍重に値するというだけにとどまらず、この”世界の古典”の創作の秘密を明ら

    かにするものとして、その貴重さの度合いはいよいよ高い。」とある。


    序に続き影印、 翻字篇、本文篇、解説は桜井武次郎氏による「芭蕉自筆「奥の細道」

    について」、上野洋三氏による「芭蕉の書き癖」と続く。

    この「書き癖」では「芭蕉には「父」の字を書く場合、片仮名の「ハ」の下に漢字の

    「又」を書くような運筆で書く癖がある。『幻住庵記』の各種の清書本に見える

    「伯父」などはどれもその筆法で書かれているし、それは勿論日常の書簡の中などに

    も見られる」あり疑問と思わず芭蕉ほどの人でも、こうゆうことがあるのかとの安堵

    もある。

     

    俳諧の世界とは縁遠いが昔、尾形仂氏の「芭蕉の世界−上」を読んでいた。こちらは
    野ざらし紀行や芭蕉俳諧七部集冬の日、笈の小文、猿蓑についてだ。

    「奥の細道」を手に取るのは本書が初めてだった。芭蕉の人柄を彷彿とさせてる影印

    の優しい筆遣いがとても好きだ。本書は一級の美術書だ。

     

     

    この陰影には、芭蕉の句で一番好きな「さみたれをあつめて早し最上川」が載っている。
    (十九オ(本書46頁))。